春が過ぎても
忘れないために記録。
今夜は、このイベントに行く。
年季の入ったFlipper’s Guitar〜小沢健二ファンの間では、
けっこう有名な方で
最近(といってもけっこう前からだけど)はデイリーポータルZで、
うどんをはじめとした食べ物記事や、
身近なテーマを意外かつ素直な角度で切り込んでいくような作風で、
アラサー・アラフォー世代の中でも、とある一角の人々の心に
奇妙なのにグッサリささる、そんな独特な訴求力を持つ
ライターさんでした。
偶然なのか必然なのかもわからないけれど、
気が付いたら割と近いコミュニティで遊んでいて、
一緒にお酒を飲んだり、旅行にご一緒させてもらったり、
ライターというよりも個人として仲良くしていただいた彼女は、
この春、この世を去りました。もう本当、突然。冗談みたいに。
彼女にとって、僕はなんだったのかと考えると、
渋谷系好きお酒好きカテゴリ(お腹大きめ)に属する友人
くらいなもんだったろうと推測してます。
(誰であれ、友人って言い切らせてもらうの、
本当勇気いりますが。。。)
友人としては、つくづく、もっとお話したかった、
もっと遊んだり飲んだり出かけたり、
もっとしておくべきだったなーってことは、
思い返せば後悔はつきません。
ささくれのようにチクチク痛む喪失感を、
いまもどこかに感じながら生きてる人たちがちょこちょこといて、
だからこそ、こんな感じの場がまた開かれる。
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そんな友人としての想いとは別の部分で、
なにか大塚さんがいなくなってから、
自分とコンテンツ、自分とカルチャーってものの距離ってのを
どうにも意識してしまって仕方がない。
自分を育ててくれた「サブカル」が通るべき道筋を、
本当に地で行って、描き続けていたような方だったので。
仮に自分はその方角に進まなくても、
大塚さんみたいな人が行ってくれてるから大丈夫、
そんな安心感があった。
同じようなことを訴えるカキコミは、ちょうど彼女がなくなった頃、
僕のまわりに、ネット上にいくつか散見されていたように思うので
そうそう外れた感傷ではなく、
それなりに共有できる感傷なんだと思う。
勝手に安心してんじゃねーよ、とか
本人とかTさんとかには言われてしまいそうですが
しょうがないじゃない、それこそ大塚さんのクリエイターとしての
魅力だったんだから。
つい先週、演劇やってた時の脚本家が
「デイリーポータルZの大塚さんが亡くなった」ということを
どっかから(あるいは僕のFBでのイベント参加の通知からかも)
改めて知ったようで、
さみしそうに話してたのがすこしおもしろかった。
俺と妻、お前ん家でボードゲームやった翌日に
葬場で受付に立ったんだけどな。
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みんななるべく元気に、
なるべく長く楽しくやっていけるのが一番だ。
自分と家族と、友達のそういう日々に
貢献できるような生き方をしたい。もっと。