ぼくたちの、いばしょ。
物語の中で起きる、ひとつの中心的な主題に対して
その周囲にいる様々な立場・立ち位置の人々が
それぞれの立場として悩んだり、考えたり、喜んだり、怒ったりする
そういう類の物語がとても好き。
となると、僕が個人的に好きになる物語の多くは
当然のように「群像劇」と言われる類の物語になります。
最近言われる中二病的物語は
セカイ系とか言われる感じのかたちなものが多い気がしますが、
好みとしては世界の命運ひとつにさえ関わらない、
街角のごくごく一角で起きた、数名とそのつながりにまつわる日常、程度の
本当に箱庭の箱庭みたいな画角の物語が好きです。
電車の中ですれ違ったスーツの男性にはその人なりの生活があって、
彼の携帯にメールを送った恋人の弟の親友の妹が
スーツ男性のいる会社に新人として入って、
彼女はスーツ男性の同僚であり、ライバルでもある別の男性社員に
いいよられてうんざりしてたりする可能性とか
あったりすると思うのです。
大きな視界のごくひと角にフォーカスし、
状況を切り取り眺めるような物語だと
創作物ならではのダイナミズムなんかの要素は
どうしてもなくなってしまうことが多いものの、
その手の作品を読んでいると物語の世界が、
部屋から見える電話ボックスのある角地とも
ゆるやかにつながっているような錯覚に陥ります。
陥るからこそ、作品の中に存在する示唆は、
まるで自分のことのように、身近なものへと感じられる。
(まあ、本当に錯覚なのですが。)
そういう嗜好からすると、
志村貴子「放浪息子」は
ゆるやかに劇的とでもいうような
日常・常識のズレをどストレートに描ききってるところが
ものすごくツボだったりするのであります。
おとこのこになりたいおんなのこと
おんなのこになりたいおとこのこ。
2人と、それをとりまく人々の物語。
ほわほわなカフェオレをなめてみたら
予想に反したぐっとキツイ苦味に見舞われるような味わい。
苦味がクセになり止らないのです。
岡崎京子、山田詠美をはじめとして、
ジェンダーと感情の相関を描くタイプの作家は
80年代中ごろくらいからジャンル問わずいますが
この方の筆致は、そういう流れの系譜をしっかりとひきつぎつつも
「00年代の寓話」とでもいうような
洗練された空気があるように思います。
全体に塗りの少ない画角は、
レイアウトデザインとしてみても
とても美しいかたちを持って飛びこんできます。
新刊9巻、
個人的には冒頭22ページあたりの
主人公・修一くんとおとうさんの会話あたりが珠玉でした。
涙でた。(本当。)
※試験的にmixi日記→blogに変更してみた。
また戻すかもしれないけど。外部blog流れ、いやな方スイマセン。